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織屋にしむらの歴史

興り
戦国時代西村家の祖先、長崎、松浦(まつら)藩の豪族であった西村増右衛門道哲は、やはり豪族の鶴田惣右衛門宋悦と共に、天正五年、大友宗麟の領土拡大の戦いを避け博多に着きました。
その後、天正十五年、天下人の豊臣秀吉の進める博多町割りに参画し、博多の豪商、神屋宗湛(かみやそうたん)を援けた功により、家紋をはじめ、朱印状や糸の海外貿易や交易商の割符を得ました。長崎に支店を作り、屋号を「長崎屋」と称し、貿易商を営なみ、同時に糸割商人の一人として、中国より輸入していた絹糸の割り当てを受けました。往時の博多興隆に関する古文書を多数蔵していましたが、惜しくも第二次大戦の福岡空襲にて消失しまいました。
博多織屋にしむらの誕生
江戸時代、西村家は、博多織屋株(織屋業は株を持った商人に限定されていた)所有の高瀬屋与右衛門、冨屋宗右衛門、白水長左衛門らの博多織屋に糸割商人として、絹糸を納めていました。しかし江戸末期、幕府の政策として国内養蚕業奨励のため、中国絹糸の輸入が制限されました。そこで西村儀平は博多織株所有の、白水長左衛門に弟子入りし絹織物の技術を学ぶに至ります。
文久元年(1861年)博多織屋を始めます。場所を福岡市中市小路(現、奈良屋町。ここに初代織屋にしむらは西村儀平により誕生しました。
明治〜昭和初期
明治初期の政治不安、金融不安、米価の高騰、社会不安の中、博多織の粗悪品が出回り著しく博多織は信用を失います。この状態に危機感を持ち、製品の品位を守り信用の挽回を図ることを目的として、「博多織会社」を組織しました。時に明治十三年三月。この時七組の組が組織されて運営を行う。そのひと組「毘沙門組」に織屋にしむら二代目西村清吉が任じられました。なお「博多織会社」は明治十七年に発展的解消に至ります。
三代目西村清次郎は博多織で力士の化粧回しや締め込などを製造します。博多織の化粧回しは硬く結ぶことができ、肌触りも良く好評を得ました。相撲界との強い繋がりは、博多の地に大相撲をたびたび誘致し、「木戸銭御免」となりました。
消失そして再興への道
昭和十六年発令の奢侈令により操業が難しくなりました。さらに四代目西村政太郎が第二次世界大戦の徴兵を受けました。そして昭和二十年六月、福岡大空襲で自宅・織工場と、会社のすべてを消失し、操業の完全中止に追い込まれました。昭和二十三年四代目西村政太郎は無事に復員しました。復員後、博多織屋として再興の道をめざします。ようやく手にいれた織機を帯地織用に改良する技術を開発し、博多織仲間とその技術を共有しつつ、博多織産業の普及を促し、博多織屋としての活動を取り戻すことができました。昭和四十二年、筑紫郡筑紫野町(現、筑紫野市)本社工場を移設し、昭和五十七年五代目として西村悦夫が就任、紋織物を手掛けます。平成十九年七月織屋にしむらの直営店「博多織献上館にしむら」を開設しました。
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